インタビューを受けるピナ・バウシュは、どこか不安げだ。確信が持てず、いつまでも口にするのをためらっている。申し訳なさそうな表情で、黙り込んでしまうことすらある。
そんなピナ・バウシュの姿を思い浮かべながら、いざ彼女の舞台にのぞむと、そのイメージが完全に覆されてしまうことがある。言葉にすることさえも躊躇している、弱くて優しそうなあの女性が、どうやったら、こんな大胆な決断をできるようになるのだろう。
ウィリアム・シェイクスピアの戯曲『マクベス』を元にした『彼は彼女の手を取り、城に誘うー皆もあとに従う』(1978)は、演劇従来の方法で『マクベス』を取り扱うことを諦め、この作品のエッセンスとも言える「虚栄心」「重圧」「不安と思い込み」といった、私たちの人生のどこかで、馴染みある感覚だけを大胆に抽出させて成り立っている。ダンサーは踊るかわりに、暴れたり、叫んだり、寝転んだり、池に飛び込んだりする。もちろん『マクベス』の物語は必要とされず、原作の台詞もほとんど使われないままに、この舞台は進む。何も知らずに作品を観にきた人は、これがピナ・バウシュ版『マクベス』であることに気づかないまま舞台を後にすることもあるだろう。
シェイクスピアの作品を前に、オリジナルのテクストにも、物語にも頼らないという、作品へのアプローチの仕方がそもそも大胆であるのに、さらには踊らない、語りもしないという舞台、その在り方も当時の演劇、ダンス界に新しく、これだけで挑発的と捉えられることもあっただろう。舞台の前方には深い池を設置しているが、ステージに水を持ち込むという、舞台技術者や劇場からするとリスクが大きすぎる決断を、演劇史上初めて取り入れた作品でもある。初演からすでに44年経過しているはずなのに、おそらく今日の観客も、この作品をすんなり受け入れるよりは、衝撃に近いものを(もしかしたら多少の戸惑いも)覚えながら観ているのではないだろうか。
私が初めてこの作品を観たのは2019年のことだった。その時点で十分に 彼女の大胆な一面を見せつけられた気がしていたのに、最近この舞台のことを本で読みながら、もう一度衝撃を食らってしまった。なんと、この作品がシェイクスピア学会の年次総会で上演されるために作られたというのだ。まさか、と私は思った。もし私がピナ・バウシュだったら、シェイクスピアの研究者たちは、一番作品を見せたくない相手である。シェイクスピアの遺した作品といくつもの研究書を手に、日々シェイクスピアのことばかり考えて、それを仕事にしている人、しかも年配男性が多く占めているであろう伝統的なアカデミアに向けて、こんな大胆な取り組みを披露するなんて、考えるうちから、彼らの反応や批判が目に浮かぶ。思わず「そんなに傷つきにいかなくても」とピナの手を引き止めたくなってしまう。
初期のピナ・バウシュの舞台において作品が非難にさらされることは珍しくはないのだが、やはりこの作品に対する批判はとりわけ厳しいもので、初演時は始めからブーイングと指笛が止まらず、上演中止になるぎりぎりのところまで追い込まれたという。
私がピナ・バウシュの作品を毎シーズン観に行くようになったのは、学業のためにヴッパタールへ引っ越した2016年からである。当初、ピナの舞台に感じていた魅力とは、誰の目にも分かる彼女特有の鋭敏な感性を頼りに作品が作られているところ、弱さから始まったものが創作の過程で強さに変えられていく、作品の在り方であったように思う。けれどこの数年、引き続きピナ・バウシュが遺した作品を発見する中で、舞台に滲み出る彼女の「恐れない姿勢」も、他に置き換えられない魅力として私の中で特別な場を占めるようになった。もちろん、実際には恐れを感じることもあったはずだけど、どこかの段階でそれを無視できる強さを持っているのを、そして、批判されることが予測できる場合にも、譲れないこだわりを持ち続けることができる強さを、作品を通して、また彼女にまつわる文献を通して発見している。
伝統的な舞台からは随分とかけ離れ、こんなに前衛で、時に挑発的とも取れる舞台でありながら、今日のブッパタールでピナ・バウシュの公演に行くと、舞台の前方を埋める観客は圧倒的に地元の年配のファンである。これがピナ・バウシュと舞踊団の、70年代からの挑戦の行方なのだなと思うと思いが込み上げて、公演の毎に作品へ、そしてピナの挑戦へ、特別な拍手を送ってしまう。